『葬式は、要らない』(島田裕巳著、幻冬舎)は、古代から現代までの葬儀様式を考察し、日本人の死生観の変遷を追求しています。奇しくも今日は、原節子さん(1920年6月17日~2015年9月5日)が生まれて104年目。大スターの葬式もひっそりと行われました。
『葬式は、要らない』は、宗教学者の島田裕巳さんによる著書です。
本書は、日本の葬儀費用が世界一高いことを指摘しています。
平均231万円という金額は、イギリスの12万円、韓国の37万円、アメリカの44万円と比較しても驚くべきものです。
それが、今やこれからを生きる、のこされた人の負担になっていることを批判的に見ています。
葬式の豪華さや高額な戒名について、古代から現代までの葬儀様式を考察し、日本人の死生観の変遷を追求しています。
本書によると、現在の寺院は戒名が収入を支えており、また日本は墓参りに対する執念が宗教より強く、「墓参り教」といってもいいほどだといいます。
しかし、生前の名前があるのに、どうしてわざわざ亡くなってから別に名前をつける必要があるのか。
戒名というものは本来、出家した時に授かるものであり、俗世の死んだ人に金で買うような国は世界で日本しかありません。
立派なお墓を作っても、しょせん建てた人の自己満足で、結局子孫には維持管理の迷惑が生じることを考えているとは思えません。
「墓仕舞い」だの「直葬」だのといったことがトレンドになっている現代。時流にあったアップデートを怠ることは、子や孫に宿題を先送りにすることになると警鐘を鳴らしています。
『大番』で初めて知った原節子さん
『ノンちゃん雲に乗る』1955年・新東宝。監督 倉田文人。主演の鰐淵晴子と母親役の原節子。母娘の役柄だったが、美しすぎる母娘であった。ちなみに父親役は藤田進。#昭和 #映画好き pic.twitter.com/r4r7snQXF4
— カントク (@kantokuflash) May 9, 2024
『大番 完結篇』
念願の『大番』シリーズ制覇できた!!。最終作も安定の面白さで良かった。今回気づいたのだが、ビジネスで成功して大金持ちになったのに原節子への恋を成就させられなかったギューちゃんって、原節子に惚れてた東宝のプロデューサー藤本真澄の分身だよね。 pic.twitter.com/zXoBaNBcdk— TagTak (@tagutaku5386) September 28, 2019
さて、今日は、原節子さん(1920年6月17日~2015年9月5日)が生まれて104年目。
日本映画界の伝説の女優を思い出す日として、SNSなどで取り沙汰されています。
原節子さんは1963年に女優業を引退し、2015年に95歳で亡くなるまで隠遁生活を送りました。
Copilotに尋ねたところ、以下が代表作ですが、残念ながら全て私が生まれる前です。
– 『晩春』(1949年)
– 『東京物語』(1953年)
– 『わが青春に悔なし』(1946年)
– 『青い山脈』(1949年)
– 『めし』(1951年)
その後、テレビやDVDで見る機会がありましたが、ずっと後のことです。
私自身の経験では、加東大介主演の『大番』(1957年、東宝)を、封切り映画館ではなく、テレビで観たのが原節子出演作との出会いでした。
『大番』は、獅子文六さんの大衆小説で、昭和前期の兜町を舞台に、相場師「ギューちゃん」の波乱万丈の一生を描いています。
“ギューちゃん”のモデルは、合同証券(エイチ・エス証券の前身)社長の佐藤和三郎さんといわれています。
原節子の役は、ギューちゃんこと丑之助(加東大介)の人生を変えてしまうマドンナです。
容姿にコンプレックスを抱く丑之助(加東大介)は、ラブレターを不特定多数にばらまきますが、地元資産家令嬢の可奈子(原節子)にまで行き渡ってしまい、それが原因で故郷を出ていかなければならなくなるからです。
可奈子(原節子)は結局、公爵(平田昭彦)と結婚するのですが、まあ確かにその方がお似合いか。
上京した“ギューちゃん”は、山あり谷ありの相場師生活を繰り返します。
そして、朝鮮戦争の特需で桁違いに成功すると、待合女中役である、おまきさん(淡島千景)という内縁の女性がありながら、「自分は独身だ」と、夫が亡くなった可奈子(原節子)に再チャレンジ。
しかし、可奈子(原節子)は結核で亡くなってしまい、罰が当たったかのように、“ギューちゃん”もそこから運気が下降するのですが、結局相場師として立ち直るという話が、4部にわたって展開されています。
有名人の“消え方”
さて、原節子さんは、小津安二郎監督が亡くなってからは表舞台から姿を消しました。
スターが、余力を残して引退すると。いつまでもマスコミに追いかけられるのは、山口百恵さんも同様ですが、晩年は鎌倉での暮らしを時々メディアに覗き見されていました。
しかし、亡くなったことはすぐには発表されず、2ヶ月経ってから訃報が明らかになりました。
現役を退いたとはいえ、著名人ですから、もし死亡した時点で葬儀の日程を発表すれば、相当数の参列希望者があらわれ、メディアもより大きく報じたことでしょう。
人気稼業でも、最近は密葬の形を取り、落ち着いてから発表し、必要なら「偲ぶ会」をすればいい、という段取りをとるケースが目立ってきたように思います。
国民栄誉賞を受賞した渥美清さんも、初七日を過ぎてからの発表でした。
私は、そんな「消え方」に賛成です。
私は、人間なんてたかが猿が進化した生き物にすぎないと思っているので、結婚式にしろ葬式にしろ、個人的なことなのに、派手に「式」として執り行い、遠い他人にまで共有させるような態度は、あつかましいと思ってしまうのです。
では葬式に何百人も集まれば、死んだ人は生き返るのか、たくさん集まれば、その人は立派な人だったという評価になるのか、といったらもちろんそんなことはありません。
大原麗子さんのように、母と弟の2人だけの葬式でも、千人単位が焼香する葬式でも、結局同じことです。
相互主義ですから、たくさん人を呼べば、逆にそのたくさんの人が同じことがあった時に駆けつけなければなりません。
冒頭の書の話に戻ると、タイトルで誤解されてしまうようですが、島田裕巳さんは、葬式自体を否定しているわけではありません。
宗教的手続きを絶対視した、派手志向の葬式を「要らない」と述べているのです。
“人は亡くなったら静かに消える”という一点で、本書の主張には共鳴できると考えています。
ということで、今回は、本と原節子さんの紹介でごっちゃりした内容になってしまいました。
以上、『葬式は、要らない』(島田裕巳著、幻冬舎)は、古代から現代までの葬儀様式を考察し、日本人の死生観の変遷を追求、でした。
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