言ってはいけないー残酷すぎる真実ー(橘玲著、新潮新書)は、人間はみな平等、努力は報われるなど「綺麗事」を学術的に反証した

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言ってはいけないー残酷すぎる真実ー(橘玲著、新潮新書)は、人間はみな平等、努力は報われるなど「綺麗事」を学術的に反証した

言ってはいけないー残酷すぎる真実ー(橘玲著、新潮新書)は、人間はみな平等、努力は報われるなど「綺麗事」を学術的に反証した書籍です。「知能は7~8割は遺伝」「犯罪者の子供は遺伝的に(環境とは関わりなく)犯罪者になりやすい」等々を論証しています。

『言ってはいけないー残酷すぎる真実ー』は、橘玲さんが新潮社から上梓しました。

何が残酷かというと、この社会の「きれいごと」を学術的根拠で否定しているからです。

人間はみな平等

努力すれば報われる

人種によるIQの違いはない

見た目は大した問題ではない……

いや、そんなことはない。

往々にして、努力は遺伝に勝てない。知能や学歴、年収、犯罪癖も例外でなく、人種による違いもある。美人とブスの「美貌格差」は約3600万円だ。子育てや教育はほぼ徒労に終わる。

といったことが書かれています。

結論から述べると、なかなかおもしろい書籍です。

「見た目」で人生は決まる。子育てや教育は子どもの成長に関係ない。なんという残酷な事実だろう。

リベラルを自認する人からは、眉をひそめることもあるかもしれません。

しかし、少なくとも私はそうではありませんでした。

たとえば、1980年代後半。

教育改革の諸法案が議論されたとき、左翼・リベラル陣営は、諸法案に反対しました。

できる子はエリートを、できない子はそれなりに、という方針は気に食わない。

とくに、「教育の機会均等を壊すな」という論陣を張りました。

単位制高校を否定し、従来の学年制の高校生活堅持を主張しました。

私も、当時はそれが正しいと思っていました。

しかし、長男が火災で中途障害になり、高校進学を迎えたとき、「教育の機会均等」は、結局一部の人の機会を奪うパラドックス担ったのだということを知りました。

つまり、あらゆる障碍者、不登校児、芸能やスポーツなど自分の立場が確立している人たちは、従来型の高校では対応できませんでした。

それが、単位制高校が実現したことで、広域通信制制高校に入学し、「高卒」の資格を得られるようになりました。

そういう経験があるので、「残酷すぎる真実」は、いかなる価値観に使うかによって、むしろ人類のより幸福に繋がり得るものだと思いました。

本書は2023年5月3日現在、KindleUnlimitedの読み放題リストに含まれています。

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リベラルは逆差別か

本書の眼目は、あとがきに書かれています。

ちなみに私は、不愉快なものにこそ語るべき価値があると考えている。きれいごとをいうひとは、いくらでもいるのだから。

「暴く」というのは、まさにジャーナリズムの真骨頂ですが、学術的にもそうなんですよね。

マイケル・サンデルさんの『実力も運のうち』にも通じる話ですが、「人間は努力で道は開ける」という言い方って、すごくきれいで真っ当ですよね。

でも、現実にそうでなかったらどうでしょう。

道が開けなかったとき、その人は自分の努力に責任を還元しなければならなくなります。

ですから、努力だけでないもの、「実力」の正体を、はっきりとさせることは、決して悪いことではないと思いませんか。

知能、性格、障害、犯罪などの遺伝率。

社会や家庭環境などでどの程度変えることが出来るのか。

ひとつ、引用が長くなりますが、興味深いくだりなので要約を書きます。

「人種とIQについてのタブー」というところです。

1964年に、アメリカで黒人差別を禁じた公民権法が成立すると、リンドン・ジョンソンの民主党政権は、「ヘッドスタート」と呼ばれる貧困家庭の子どもの教育支援プログラムを打ち出しました。

経済的事情で幼児教育を受けられない3、4歳児に、「すべての子どもが、親の所得にかかわらず、平等に人生のスタートを切るべきだ」とさまざまな就学支援をするもので、連邦予算としては宇宙計画に次ぐ巨費が投じられてきました。

しかし、幼児教育はたしかに子どもの学力を向上させるものの、その効果は就学後1年程度で消失してしまったといいます。

1969年、アメリカの教育心理学者アーサー・ジェンセンが 「IQと学業成績をどれほど増進できるか」と題した論文を発表しましたが、知能を記憶力(レベルⅠ)と概念理解(レベルⅡ)に分け、レベルIの知能はすべての人種に共有されているものの、レベルⅡの知能は白人とアジア系が、黒人やメキシュ系(ヒスパニック)に比べて統計的に有意に高いことを示したそうです。

この主張は「黒人の子どもは遺伝的に知能が低いから幼児教育には意味がない」と受け取られ、全米に憤激の嵐を巻き起こした。

しかし、ジェンセンの支持者たちは、ヘッドスタートが貧困家庭の子どもたちのためではなく、税金に群がる教育関係者の巨大な利権になっていると批判しました。その効果が科学的に検証できないにもかかわらず、毎年多額の連邦予算を計上しているのは、既得権層の役得を税によって支えるためだと指摘しました。

「良心に心地いい」からといって、科学的な根拠のない政策に莫大な支出を続けることが許されるはずはありません。

行動計量学者リチャード・ハーンスタインと、政治学者チャールズ・マレーが1994年に出版した『The Bell Curve (ベルカーブ)』では、現代社会が知能の高い層にきわめて有利な仕組みになっていることを膨大なデータをもとに指摘。そのうえで彼らは、白人と黒人のあいだにはおよそ1標準偏差(白人の平均を100とすると黒人は56)のIQの差があり、これが黒人に貧困層が多い理由だと述べたといいます。

『ベルカーブ』は、白人と黒人のIQにかなり大きな差がある〝事実”が示されただけに過ぎないのに、ジェンセン同様「人種差別主義者」のレッテルを貼られてすさまじい非難に晒されることになったそうです。

奴隷制の“負の歴史”を抱えるアメリカでは、黒人の学力が低いのは差別の歴史のせいなのだから、大学入学や就職において、差別を是正するよう黒人の特別枠を設けることは当然とされているそうです。

こうした政策が妥当なのか、『ベルカーブ』の著者たちは、同じIQの白人と黒人を比較することでアファーマティブ・アクションを検討。

たとえば平均的アメリカ人 (25歳)のうち、学士号取得者の割合は白人で27%、黒人で1%。これだけを見るとたしかに黒人に対する差別の影響のように思えますが、同じIQで比較すると、学士号を持つ割合が白人で50%の場合、黒人は68%と比率は逆転するそうです。

すなわちそれは、IQが同じであれば、白人よりも黒人のほうが学士号を取得しやすいということです。

要するに、逆差別になっているという話です。

はっきり書けば、日本にも、そういうマイノリティ枠はありますよね。

政治家だって、クォータ制といって、とにかく人数で女性枠を確保しようという考え方がありますが、それは結局、政治家の水準を下げるだけではないかと思います。

男女比が五分五分になるかどうかは結果であり、アファーマティブ・アクションを施すことによって、逆差別になっている可能性はあるでしょう。

遺伝とか人種とか、努力でどうにもならないところでの「差」を明らかにするのはタブーとすることで、逆差別を生んだり、本人に筋違いの苦悩を与えたりする非合理があるという話です。

自分の戸籍調べも「差別」になってしまうのか

タイトルは「言ってはいけない」と言いますが、統計とか学術的なデータなので、それ自体をタブー視するものではないですよね。

まあ、この結果で言えることは、「右」も「左」も信用出来ないということです。

「右」については、本書に出ているような結果を「いかなる価値観で利用するか」という点に問題がありますね。

たとえば優生思想とかね。

一方、リベラル含む「左」については、本書に書かれているように、都合の悪い研究自体をタブー視します。

以前も書いたことあるのですが、近年の家系図づくりの流行に対して、Wikiにはこう記載されています。

現代ビジネス専属契約記者、コラムニストの高堀冬彦は、家系について調査し放送することが「本人」を重視する現代社会の精神に反し差別の助長につながるなどの問題点を述べている」
家系は、家柄が明らかになるから、それが人を差別するツールになってしまうという話です。

差別という言葉のもとに、都合の悪い全てのことにヴェールを掛けてしまう。

おいおい、いいかげんにしろよ。

ネトウヨではありませんが、いったい在日・帰化人にどこまで譲歩すれば気が済むんだ、といいたい。

戸籍制度自体の是非議論はいくらあっても構いません。

でも、とにかく過去のものは存在する。

これは厳然たる事実です。

でもそれは、その時代の価値観の中で存在したものであり、そこには何の罪もありません。

それを、いかなる価値で利用するかは、もう少し前向きでもいいのではないでしょうか。

そんなこといったら、お城だって過去の遺物でしょう。

オセロゲームのように価値観が変わり、そのたんびに前時代のものは全否定して捨てていたら、何も残らないじゃないですか。

そもそも、戸籍は本人でなければわからないので、第三者に家系を貶められることはありません。

何より、『「本人」を重視する』からこそ、自分の先祖や親類はどうなっているのだろうと気にするのは、自然の感情ではないでしょうか。

昨今の家系図ブームは、一族の家柄が知りたいからではなく、自分探しであるといわれています。

一応、士族とか平民とか、族称は消してありますしね。

この社会が平等で、誰でも機会均等が保証されているのなら、高堀冬彦さんのような言い分もあり得るでしょう。

しかし、現実にはそうではありません。

毒親に育った、貧乏に育った、反社な親のもとに育った。

それだけで、人生は大変な試練です。

人間の生涯の大前提は、どんな親のもとに生まれたかにかかっている、というのは決して過言ではないでしょう。

自分は努力してもなぜ不遇なのか。

なぜ辛い人生なのか。自分が悪いのか。

「親の顔が見たい」などといいますが、「どんな親」かをさらに知るために、先祖や親戚を知りたい、と思うわけです。

自分が誕生するストーリーを知りたいのです。

それを「差別の温床だ」などと隠してなにかいいことがあるのか。

「不幸不遇は自分の努力不足なのか」などと考えてしまうことが、果たしていいことなのか。

「ほしのもと」の真実を知ることは、自分自身への信頼を取り戻す契機となりえることもあるのです。

私自身は、家制度を含めて保守陣営にはたてないと思っていますが、かといって論争する側も別の意味でひどいから、ホント困っていたところです。

「右」とか「左」のポジショントークではなくて、事実と道理で判断するしかないんですよね。

以上、言ってはいけないー残酷すぎる真実ー(橘玲著、新潮新書)は、人間はみな平等、努力は報われるなど「綺麗事」を学術的に反証した、でした。

言ってはいけない―残酷すぎる真実―(新潮新書) - 橘玲
言ってはいけない―残酷すぎる真実―(新潮新書) – 橘玲

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