許せないという病(片田珠美、扶桑社)は、理不尽で非常識な他者の行為を許せない人が、その呪縛から解き放たれ克服する指南書です。自ら幸福になることが最大の復讐であると説き、許せなくても許せない自分を許すなどの解決法が書かれています。
『許せないという病』は、片田珠美さんが扶桑社から上梓した書籍です。
本書のテーマは、他人を許せない心理を分析し、ラクに生きるための処方箋を示しています。
あいつだけは許せない、という思いは誰でも1度や2度は抱いた経験があるでしょう。
それはどうして許せないのか、その思いから解き放たれるにはどうしたらよいのか。
本書は様々な例を出して、「許せないという病」を克服するための解決法を紹介しています。
「怒り」が人生を悪い方向に転落させるものとわかってはいるが……
本書『許せないという病』の目次構成です。
第1章 他人を許せなくて悩んでいる人たち
第2章 なぜ「許せない」のか?
第3章 「許せない」を引きずる人の特徴
第4章 「許せない」という病から抜け出すための四つのステップ
第5章 「許せない」自分を許すために
現実の「許せないという自分」を冷静に見つめることで、客観的な分析や解決に導こうという展開です。
相手を「許さない」という気持ちが、自分にとっても、自分の周囲にとっても決して良いことではない、というのはしばしば耳にします。
たとえば、仏教コンテンツで20万ものチャンネル登録者を誇る、菊谷隆太さんの『仏教に学ぶ幸福論 by 菊谷隆太』では、『実はその言動、周囲の人を苦しませています【仏教の教え】』として、「怒り」こそが猛毒であると説いています。
実はその言動、周囲の人を苦しませています【仏教の教え】 https://t.co/ENavML2v2r @YouTubeより
— 赤べコム (@akabecom) September 3, 2022
怒りは自分の運気を下げるだけでなく、その場の雰囲気も悪くしてしまい、周囲の人達にも伝染してしまうのだというのです。
これはもう、私は身に覚えがあります。
私は、11年前に妻子が意識不明の重体になった火災など、たぶん他の人よりも苦労や不幸を経験しているだろうと自負していますが、
どうしてそんな不幸ばかり経験するのだろうといつも考えており、最近出した結論としては、その仏教の教えである、「怒り」を抱き続けたことも一因ではないかと気づきました。
たとえば、その11年前の火災のときは、その数年前から3件、親類や知人に対して許しがたい経験をしたため、その人達を恨み、どう復讐してやろうか、なんてことまで考えるほど、いつもその3件がローテーションで頭の中にありました。
ですからもう、心の中は疲弊して真っ黒でしたね。
といっても、それらはいずれも向こうから仕掛けられたことで、私がこしらえた「腹のたつこと」ではないのです。
いわば、降り掛かった火の粉なのです。
でも、上記の動画によれば、どっちに非があるかというのは本質ではなく、「怒ったら負け」ということのようです。
なるほどなあと思いました。
ただし、仏教というのは残念ながら、すべてのことを「因」と「縁」と「業」で完結させてしまいます。
つまり、どうしてそういう「火の粉」がかかってきたのかとか、どうすれば「怒り」を解決できるのか、といったことに合理的な回答を与えてくれません。
説明の辻褄は、「三世」に還元されてしまうのです。
そう、最終的には前世のせいになってしまうのです。
そこで、学問的に、つまり合理的に解決したくて、本書を手に取ったわけです。
客観的現実を変えるのではなく気持ちを変えるための指南
本書『許せないという病』の著者は片田珠美さんです。
これまで、以下の書籍をご紹介してきました。
人間の「負の心」については、徹底的に分析されている方です。
ですから、本書も大いに期待できるわけです。
ただ、本文の文章は、学者の報告文に近く、総じて冗長で、メリハリもなくちょっと読みにくい印象がありました。
偉そうに批評させてもらうなら、本人がなりたかったという「物書き」としての力量には疑問符がつきました。
でも、この方の場合、本のタイトルや扱うテーマが、人間誰でも持っていそうな「お悩み系」なので、それで得をしているところがありますね。
もちろん、本書の分析や解決法自体は参考になることはあります。
ただ、本書がいう「許せない」ケースというのは、その分析や、机上の解決法では間違いではないのだろうけど、だから何?という現実的には無力な話も少なくありませんでした。
たとえば、「どうしても許せなければ距離を置くことも必要」などと解決法を書いているのですが、そうしたくてもできないケースはどうすればいいのか。
旧弊な「家制度」の名残で、長男や末娘が、憎い親でも自分が介護しなければならない「貧乏くじ」を引く光景は、どこにでもあるありふれた現実です。
でも本書にその根本的な解決は書かれていません。
著者が本書で書いている「解決法」は、しょせん「心の持ち方」をコントロールするだけで、「貧乏くじ」という客観的な現実を変えるものではないのです。
ですから、これを読んで、ただちに「許せないという病」を解決しようとは思わず、気持ちの上で参考になることがあれば、というぐらいの眼目で読まれるのがよいのではないかと思います。
親の道具にされたくないのに「一流」の道具になるという奇妙な理屈
本書は、「はじめに」と「おわりに」に、実は著者自身が、母と祖母に対して「許せないという病」であることを述べています。
まず「はじめに」では、母と、父の母の嫁姑関係が最悪のあおりで、著者自身も祖母と折り合いが悪かったこと。
そして、自分は文学部に進みたかったのに、母はステータスを獲得する道具のように自分を扱い、医学部に入れたから憎い、という自分の身の上を告白しています。
ところが、上記の本文の後の「おわりに」に書かれている、その話の結論は、期待はずれのものでした。
自分は、祖母や母を今も許していないが、「許せない」気持ちをバネにして頑張って一流大学(医学部)に入り、今は「物書き」として原稿を書くという成果を得た、という自慢話で結んでいるのです。
「許せない」という気持ちを、相手を見返すというエネルギーにしたほうが自分のためになりますよ、という話です。
それ自体は、もちろんご説ごもっともです。
でも、そもそも著者の「許せない」とする言い分自体に、疑問符が付きました。
なんとなれば、少なくとも母に対する憎しみというのは、親離れできない著者自身にも責任はないのか、と私には思えるからです。
だって、そんなに親が嫌なら、親がおかしいと思うなら、親の価値観を否定して自分の価値観で自分の人生を邁進すればいいだけの話です。
「物書き」になりたかったのなら、親を捨てて、作家に弟子入りでも何でもすればいいだけの話です。
なのに、親に「ステータス」にされるのを憎みながら、自分は好き好んで「一流」の「ステータス」を獲得して親を「見返した」とする発想は、第三者が聞くと、まことに奇妙な理屈です。
あんた、それが嫌だったんだろ、「一流」ならむしろ親は大喜びだろ
と突っ込まれるような話です。
すなわち、片田珠美さん自身に、母親と同じ「片田家はエリート」とか何とかいった選民意識があり、それを払拭して新しい価値観を構築できなかっただけの話なのです。
自分が否定すればすむだけの呪縛を否定できなかったから、母親のせいにしているだけではないのでしょうか。
「許せない」とするケースは様々なので、一概にはいえません。
が、少なくとも肉親の、とくに親子の「生き方」をめぐる確執は、まず親の価値観を否定できるほどの、拠って立つ自分の価値観をしっかり貫徹できるかどうかが肝要ではないのでしょうか。
「許せない自分」を許せぱ良い?
まあ親子というのは対等ではありませんから、親の呪縛から逃れられにないということについては大いに理解できますが、その親の価値観の中での「成功」を喜んでいるようでは、「(親を)許せない」ということを本書の例とするのはちと違うだろう、ということです。
まとめますと、本書の内容は、
- (実体験から)自分が幸福になることが最大の復讐である。
- 人格は許して言動は許さないと割り切ろう。
- 「許せない自分」を許せぱ良い。
「1」はわかります。
復讐というより、幸福になれれば、他の不幸は「まあいいや」という気になれるからです。
ただ、「2」と割り切るのはむずかしいでしょうね。
「3」にいたっては、「許せない病」の克服とはちょっと違うように思います。
つまり、これでは結局「許せない」ままなので、心が疲弊していることに変わりはないでしょう。
私の持論ですが、やはり許せない人(事)はなるべく考えないようにして、その「余った」時間やエネルギーについては、なにか楽しいことを探した方が良いと思います。
ペットを飼うとか、毎日更新しているYouTubeのチャンネル登録をするとか、ゲーム征服をするとか、夢中になれるものでも探したほうがいいのかなと思っていますが、みなさんならどうしますか。
以上、許せないという病(片田珠美、扶桑社)は、理不尽で非常識な他者の行為を許せない人が、その呪縛から解き放たれ克服する指南書、でした。
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