銀河鉄道の夜(原作/宮沢賢治著、漫画/バラエティ・アートワークス、Teamバンミカス)は、銀河鉄道の不思議な旅を描いた童話の漫画化です。孤独な少年ジョバンニが、友人カムパネルラと銀河鉄道に乗車し、不思議な乗客と旅をする物語です。
『銀河鉄道の夜』は、宮沢賢治が書いた不朽の名作童話で、バラエティ・アートワークスが漫画化し、Teamバンミカスから上梓されましたる
まんがで読破シリーズ 第7巻です。
この記事は、Kindle版をご紹介します。
貧しく孤独な日々を送る少年ジョバンニが、祭りの夜に親友・カンパネルラと宇宙を走る銀河鉄道に乗りました。
どこへ行くか、どうして乗っているのかもわからない夢のような不思議な旅です。
しかも、乗車している乗客たちもなにか変です。
汽車はどこへ向かうのか?
人間にとって「ほんとうの幸せ」とは何か?
宮沢賢治の不朽の名作童話を漫画化です。
宮沢賢治にとっては、代表作ではありますが、遺稿でもあり、ストーリーは大幅な改稿が行われています。
本書は2022年12月12日現在、AmazonUnlimitedの読み放題リストに含まれています。
銀河鉄道の旅で生きる意味を覚る
原作は、天文学の授業から始まっています。
先生から質問されたジョバンニでしたが、貧しい家庭で生まれ育ったジョバンニは、日々アルバイトに追われていて答えることが出来ません。
親友で優等生のカムパネルラは、正解を知っていましたが、ジョバンニに気を使って自分も答えませんでした。
クラスメイトは、ジョバンニの父親は密猟で刑務所に入っていると噂しています。
ジョバンニは、北の海に漁に出ていると思っていますが、母親はそれについて曖昧な答えしかしません。
ジョバンニは、活版処で文字を拾うアルバイトをしています。
そこでも、いじめられながら仕事をしています。
ジョバンニは、クラスの連中が話していた星祭りが気になって、少しだけ見に行くことにしました。
その際、クラスの連中と会い、いじめっ子のザネリからはまたしてもからかわれましたが、そこにカンパネルラもいたことはショックでした。
ジョバンニは、まっ黒な松や楢ならの林を走り抜け丘に出ると、がらんと空がひらけて、天あまの川がわがしらしらと南から北へ亘わたっているのが見え、また頂いただきの、天気輪の柱も見わけられたのでした。
するとどこかで、ふしぎな声が、銀河ステーション、銀河ステーションと云いう声がしたと思うといきなり眼の前が、ぱっと明るくなって、まるで億万の蛍烏賊ほたるいかの火を一ぺんに化石させて、そら中に沈しずめたという工合ぐあい、またダイアモンド会社で、ねだんがやすくならないために、わざと穫とれないふりをして、かくして置いた金剛石こんごうせきを、誰たれかがいきなりひっくりかえして、ばら撒まいたという風に、眼の前がさあっと明るくなって、ジョバンニは、思わず何べんも眼を擦こすってしまいました。
あれ、さっきまで丘にいたのに、ここはどこ?
汽車が止まっていましたが、車内にカムパネルラを発見し、自分も慌ててその汽車に乗りました。
出発した汽車は、大気圏を抜け宇宙を走っています。
夢?
この汽車は、どんな燃料を使っているのだろう。
「アルコールか電気だろう。」カムパネルラが云いました。
汽車は、天の川の水や、三角点の青じろい微光びこうの中を、どこまでもどこまでもと、走って行くのでした。
乗客も、一風変わった人ばかりです。
十字架を持った教会のシスター、渡り鳥を捕まえてお菓子のようにして食べさせる商人、6歳くらいの艶々した黒い髪の毛の男の子、茶色い目をした12歳くらいの可愛いらしい女の子、黒い外套を着た青年の3人組は、「天に行く」といいます。
男の子は、「船なんか乗らなきゃよかったなあ」と、文句を言っています。
青年は子どもたちの家庭教師だそうです。
「私たちは、こんないい旅をして、じきに神様の元に向かいます」とたしなめています。
「どうかなさったのですか」と尋ねる老人に、家庭教師は言います。
ジョバンニはピンときました。
僕、知っているぞ。
海はパシフィックという大きな海。沈んだ船の名はタイタニック号だ。
それだけではありません。
車中には、エスキモーのような人たちも。
「アラスカ・カトマイ山大噴火」がありました。
「清朝滅亡」を思わせる清の要人。
「ロシアストライキ200人射殺」を思わせる弾痕が痛々しいロシア人。
ジョバンニは確信します。
この汽車は、死者を運ぶ汽車なんだ。
母さんは、僕の帰りを待っているだろうな。
もう家に帰れないのかな。
汽車はサザンクロスに着きます。
家庭教師は、子どもたちに降りることを促します。
ジョバンニも誘われましたが、降りませんでした。
みんな降りてしまい、残ったのはジョバンニとカンパネルラだけになりました。
車窓から暗黒星雲が見えたとき、カンパネルラは「お母さんが待っている」と言って降りようとします。
「町へ帰ろう」と引き止めるジョバンニ。
列車が天の川の中を通過した時に、ジョバンニが外の景色に見とれていると、いつつのまにかカムパネルラはいなくなっていました。
そして、そこには黒い帽子を被った博士がいて、「あの人は今夜、ほんとうに遠くに行ったんだよ」と言いました。
「僕たちはどうしてこの汽車に……」
「この汽車が、なぜ走れるのか。解明できたものはいない。だが実験を繰り返して空を走れることを知った。そして、人々はその結果を信じた。ジョバンニ。たくさん悩んでたくさん苦しみ、それを何べんも繰り返して、あらゆる人の一番の幸福を探すんだ。その気持である限り、お前は本当にカムパネルラといつまでも一緒に行ける。」
「僕、カムパネルラの分も勉強する。そして、僕のためにカムパネルラや僕のお母さんのために、みんなのために探して見せる。ほんとうの、ほんとうの幸福を……」
博士は、「時間だ」と言って、ジョバンニを汽車から突き落とします。
ふと気がつくと、ジョバンニは丘の上にいました。
「夢か。変な夢。母さんとカムパネルラに話してあげよう」
ところが、カムパネルラはその日、川で溺れたいじめっ子のザネリを助けたものの、自分が溺死していました。
ジョバンニが現場に駆けつけると、カムパネルラのお父さんがいました。
銀河鉄道のことを話したかったのですが言えませんでした。
ジョバンニは、銀河鉄道の旅を通して、みんなの本当の幸いのために尽くすことに生きる意味があることを悟りました
ジョバンニのお父さんが、漁から帰ってくると教えてくれました。
ジョバンニは、お母さんに牛乳を持って行ってお父さんの帰ることを知らせようと、一目散に河原を街の方へ走りました。
臨死体験をどう見るか
本作は、生きることに絶望すら仕掛けている一人の気弱な少年が、友の死を知り、絶望への道を選ぶのでなく、力強く先に進んで行くことを決意した作品です。
本作について、言われているキーワードのひとつは、臨死体験かどうか、です。
タイタニック号沈没を具体的に語った人たちが乗っているということは、臨死体験を舞台としたと解してもよいのではないかと私は思います。
科学万能主義者は、臨死体験というと、「そんなことあるかい」と言います。
なぜなら、その人は生還して体験を語っている以上、そもそも臨死ではないだろう、あったとしてもそれは単なる夢だろう、という言い分です。
その人にとっては、生か死か、しかないんでしょうね。
つねにどっちか、その中間とか境目とか過渡期とかはない、ということなんでしょう。
でもね、じゃあ確認しますが、そもそも「死」って何をもっとどこからのことなんでしょう。
「生きている」か「死んでいる」かの違いはわかります。
心臓も動いていないし、呼吸もしていないし、血流も止まっているし、身体も硬直している。
でもね、人間の体は、いきなりすべての生命活動が一斉にそうなるわけではないんですね。
脳死を人の死と見るかどうかは、医学的に議論になりますよね。
心臓が止まるのが先か、脳死が先かはありますが、同時とは限りません。
というか、普通は同時ではありません。
また、いきなり心臓が止まるわけではなく、血圧が下がるとか、身体がむくむとか、少しずつ死んでいくのです。
脳だって、いきなり脳死ではなく、実はボケも、脳が死んでいく過渡期なのかもしれません。
つまり、ある時に、いきなり「生」から「死」にうつるのではなく、その変化はグラデーションのように連続的段階的に進むのです。
そのどこをもって「死」と見るかは、現在は科学にも宗教にも倫理にも共通した答えは出ていないのです。
で、その過渡期の最中に見る「夢」が、たんなる私たちが見る夢とは違い、「死」との対面、「死」への入り口ではない、といえる根拠はどこにもありません。
その意味で、興味深い設定だなと思いました。
みなさんは、いかがお考えですか。
以上、銀河鉄道の夜(原作/宮沢賢治著、漫画/バラエティ・アートワークス、Teamバンミカス)は、銀河鉄道の旅を描いた童話の漫画化、でした。
コメント