『夏の百選・レコジャケOTAKARAファイル』(草野直樹、鹿砦社)をご紹介します。1960年代~1980年代にリリースされた「夏の歌」から100曲を厳選。実寸大のレコードジャケットとともにアーチストたちの100曲を振り返り当時の歌謡界や社会背景を振り返ります。
『夏の百選』とはなんだ
『夏の百選・レコジャケOTAKARAファイル』(草野直樹、鹿砦社)は、タイトル通り、1960年代~80年代にリリースされた名曲100曲について、原寸大のレコードジャケットと草野直樹の解説で振り返っています。
私たちの心をつかんだ忘れじのサマーソング!
風鈴の音を聞きながらビールで喉を潤した時
ふと“あの夏”を思い出す
アーチストたちの歌は、世相を反映したいにしえの花火
楽しくて、高揚して、せつなくて、さみしくて…
1960年代~80年代にリリースされた名曲100曲をジャケットで振り返ろう!
というのがコピーです。
再録されている曲の一部をご紹介しましょう。
美空ひばり『真っ赤な太陽』
「昭和の歌姫」「演歌の女王」などといわれた美空ひばりがミニスカートになった『真っ赤な太陽』も掲載されています。
その美空ひばりが、『真っ赤な太陽』という歌を、アイビールックに身を固めた硬派グループサウンズのジャッキー吉川とブルーコメッツをバックに従えて歌ったのは1972年。
『女性セブン』(11月17日号)では、そのときを回想しています。
「20周年を記念したアルバムを作ろうという話が持ち上がっていたとき、ママ(ひばりさんの母・加藤喜美枝さん)が、“フリーの人たちに1曲ずつ書いてもらって、『歌は我が命』というLPを作りたい”と案を出してきたんです。ぼくも1曲書かせていただくことになったんですが、永六輔さん、中村八大さんなど、そうそうたるメンバーですからね。当然、演歌を書かなきゃいけないと思いつつも、なかなか浮かばないんですよ」(美空ひばりのバックバンドをつとめていたシャープスアンドフラッツの原信夫)
「お嬢はどんなジャンルの癖でも歌いこなせる、だから、この曲もきっとうまく自分のものにしてくれると信じて」作ったのが『真っ赤な太陽』だったそうです。
しかし、最初、美空ひばりの反応は芳しくありませんでした。
「これは私の曲ではないわね」と感想を漏らしたといいます。
といって、そこで原信夫は引き下がりませんでした。
どうすれば、美空ひばりが歌いやすい環境を作れるかを考え、伴奏をGSバンドに任せることにしたという。
「GSの雰囲気が強調されるし、お嬢も歌いやすいだろうと思ったんです。『ブルー・シャトウ』でヒットをとばしていた『ジャッキー吉川とブルーコメッツ』の井上忠夫(現・井上大輔)さんにお願いしてみたところ、ふたつ返事で引き受けてくれたんです」
この歌曲のサプライズは3点。
- 「演歌の女王」の美空ひばり自身が、「これは私の曲ではない」と認識しながらもゴーゴーダンス調の「恋の歌」を歌ったこと
- 美空ひばりの衣装がミニスカートだったこと
- 当時は飛ぶ鳥を落とす勢いだったジャッキー吉川とブルーコメッツをバックに従えたこと
こうして誕生した『真赤な太陽』は、シングル曲としても発売され、140万枚の大ヒット曲となりました。
もっとも、記事によると、一発OKだったレコーディングのときは、美空ひばりはミニスカートではなく着物姿だったそうです。
美空ひばりは、この頃、小林旭と「離婚」してそれほど日が経っていない頃でしたが、『柔』『悲しい酒』など、その都度異なるコンセプトの歌を次々ヒットさせ、歌手としてはピークでした。
その美空ひばりも、晩年は暴力団絡みでマスコミをにぎわせ、NHKの『紅白』もそれが原因で「卒業」しました。
ひとつは、身内(弟)が盃を下ろされた本物のヤクザであったことと、もうひとつは美空ひばり自身が田岡一雄三代目山口組組長が設立した神戸芸能社の専属歌手であり、かつ田岡一雄組長にはひばりプロダクションの副社長にもなってもらっていたことがあること。
1958年4月1日、田岡一雄山口組組長のが正式に神戸芸能社の看板を掲げると、美空ひばりはただちに神戸芸能社の専属歌手になりました。
そして、同年6月にはひばりプロダクションを設立して、田岡一雄組長が副社長に就任。
田岡一雄組長はそうした関係から、小林旭との縁組に動き、また離婚の際も引導を渡す役割を果たした。
配下の山本健一若衆(当時)が加古川刑務所に服役中、田岡一雄組長が美空ひばりを慰問に行かせ、「健ちゃん、がんばってつとめあげて」と激励。
感激したヤマケンは出所後、田岡一雄組長のボディーガードして男気を発揮したというのは有名なエピソードです。
松田聖子『夏の扉』
松田聖子の『夏の扉』も収録されています。
松田聖子がアイドルとして全盛だった80年代といえば、もっともアイドルが仕事をしやすかった時期です。
歌番組も多かった。
ネット配信はなかったからCDも売れた。
一般人はもとより、同業のアイドル歌手まで「聖子ちゃんカット」で横並びしました。
グラドルだの、ひな壇タレントだのもいなかったし、それらを使う番組もなかったので、歌に、芝居に、バラエティにと仕事にも幅があった。
その分商売敵のライバルも多かったわけですが、それは見方を変えれば、商品の相対化ができるわけだから、逆説的に言えば自分の個性がより明確にされるわけです。
そういう意味では、あの時代は、いったん軌道に乗ったタレントたちにとっては、実においしい「黄金時代」だったと思われます。
いま、バラエティやドラマで活躍する女性タレントはあまた存在しますが、一枚看板で使える人材がどれだけいるのか。
たとえば、研究本、暴露本を作ったとして、爆発的に売れるだけのパワーを持った女性タレントはいません。
もちろん、ネット時代だから本が売れにくい、ということはあるでしょうが、それだけでなく、そのタレントが素材として面白いか、という「ヒューマンインタレスト」として、ワクワクして来るようなタレントはいません。
芸能界は改めて論じるまでもなくスターシステムの世界です。
ではスタートは何か。
ヒューマンインタレストに尽きます。
それがない「巨乳」も「スキャンダル」も商品としての価値は半減です。
全盛時は毀誉褒貶のあった松田聖子ですが、少なくとも本物のタレントであったと思います。
このように、100人(組)の歌を歌手とともに振り返っています。
以上、『夏の百選・レコジャケOTAKARAファイル』(草野直樹、鹿砦社)世相を反映したアーチストたちの「夏の歌」名曲を振り返る、でした。
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