千葉県野田市女児虐待死事件が話題になっています。控訴審で弁護側は、一審判決には量刑が重過ぎると主張したとの報道。Web掲示板は「量刑が重いとはけしからん」と興奮気味ですが、そもそも事件は別世界の「鬼畜」の仕業なのかを含めて考えてみました。
虐待批判は良いが、量刑批評が本質なのか?
千葉県野田市の女児虐待死事件が話題です。
控訴審第1回公判のまとめ記事です。
被告が、量刑がおもすぎると控訴したことに、ブーイングコメントという展開です。
【心愛ちゃん虐待死事件】父である勇一郎被告が懲役16年の一審判決を「重すぎる」と控訴中 [和三盆★]
https://t.co/F2dS4ZmbHD pic.twitter.com/oqoC2ogYP1— 畠中由宇・相互フォロー100% (@hata_follow) January 19, 2021
記事はリンク切れするので、主要部分を抜粋引用します。
弁護側は、一審判決には事実誤認などがあり、量刑も重過ぎると主張。検察側は控訴棄却を求め、即日結審した。判決は3月4日。昨年3月の一審千葉地裁判決は、起訴された六つの罪を全て認定し、「凄惨(せいさん)で陰湿な虐待」と非難。懲役16年の判決を言い渡し、勇一郎被告が控訴していた。
これに対して、つぎのようなコメントが続いています。
3ニューノーマルの名無しさん2021/01/19(火) 15:55:38.79ID:FkAoaiSO0
軽すぎる4ニューノーマルの名無しさん2021/01/19(火) 15:55:41.51ID:RUEfAYcA0
くっ!反省がたりない!12ニューノーマルの名無しさん2021/01/19(火) 15:57:18.66ID:/+Tq8q0X0
むしろ軽すぎるだろ20ニューノーマルの名無しさん2021/01/19(火) 15:58:05.64ID:fPyKVIYU0
まぁ反省・更生はむりよな39ニューノーマルの名無しさん2021/01/19(火) 16:02:27.75ID:/iY/HQ1h0
殺人罪じゃなくて傷害致死の罪に問われているのね。
傷害致死は3年から20年の範囲で量刑が決まるということだった。
それでは20年でお願いします。49ニューノーマルの名無しさん2021/01/19(火) 16:04:23.91ID:8W35biqy0
実際重いと思う
同様の事件で加害者母親だと懲役10年も行かなくね?
いって12くらい
被告をかばうつもりもないし、別に私にかばう義理もありませんが、唯一「重い」と述べたいちばん下のコメントは興味深いですね。
こういうときは、いつも無責任で感情的なコメントになりがちですが、量刑が重いか軽いかは、何か根拠がなければ判断しようがありません。
もちろん、控訴審では被告の弁護士がそれを示すべきで、それがなければ裁判官は無視するでしょう。
ただ、Web掲示板でそういう「重い」とコメントを書いている連中も、そう思うんなら、どうして「軽い」のか示していただきたいですね。
「39」のような論理なら、わかるんですけどね。
三面記事を引っ張り出してきちゃあ、死刑にしろ死刑にしろって馬鹿騒ぎ。
そういう低級なメンタリティだから、数行の火災記事で私を犯人だと決めつけ無責任に書けるんでしょう。
そう書くと、「今回は、実際に娘さんが亡くなっているだろう。虐待を批判してはいけないのか」という反論もあるかな。
あるんだろうね。
もちろん、虐待を許してはならないことに異論はありません。
批判おおいに結構です。
しかし、私が断固として述べたいのは、
裁判官でもない部外者の私たちが、第一義的に声高に叫ぶのは量刑じゃないでしょう、
ということです。
死刑かどうかは、検察官と弁護士の言い分を聞いて、裁判官が決めることです。
マスコミ報道でしか事件を知らない私たちは、量刑がどうかなどという評論ではなくて、なぜ虐待は起きるんだろう、こういう事件はどうしたら防げるんだろう、と、自分のこととして考えることじゃないんですか。
どうなんですか。
え、自分に限って絶対に虐待なんてことはない?
なんでそんなことがいえるんですか。
ふむふむ、童貞独身だから?(笑)
じゃ、しょうがないかな。
これは、もし自分が父親だったら、という話なので、童貞主義の人は参考程度に読んでください。
誰しもが毒親に転落し得るという謙虚さがないと……
この事件に限らず、毒親の見方について、ネットの論調とは一部認識にズレを感じることがあります。
それは、簡単に述べると、子の虐待事件は「鬼畜」の親の仕業で、大半の「普通の親」にとっては別の世界の話、という交わらない二元論で親の像をとらえ、もちろん自分は「普通の親」の側から「鬼畜」を非難するというメンタリティです。
いちばん傑作だったのは、子を殴った後、もしその手が痛かったら「良い虐待」という意見です。
良心の呵責にさいなまれるのは、子を思って殴ったから良いのだ、という理由だそうです。
それ、典型的な毒親の意見ということに気が付かないのかな。
殴るという事実に理由は関係ないんですよ。
子にとって、負担や苦悩を与えることを、親の言い分で正当化することこそが、毒親のメンタリティなのです。
話を戻しますが、私は、親を二元論化する見方は認識甘いだろう、というか、間違った認識だろう、と思っています。
私は、虐待死事件は「他人事」には思えません。
もちろん、自分が現在虐待しているからではありません。
「鬼畜」と「普通の親」を、絶対に交わらない二元論とは思っていない、ということです。
紙一重というほどではないにしても、絶対に交わらないとは限らず、濃淡や距離についてはさらに議論する必要はあるかもしれませんが、少なくともグラデ状につながったものではないかと思うからです。
殴った手が痛くなる自称「普通の親」も含めて、誰でも「鬼畜」に転落し得る危うさはあるのではないかということです。
サイコパスのようなケースは別として、子どもに手をかけた親のすべてが、最初から犯罪を何とも思わない異常人格者かといえば、そうではないでしょう。
むしろ、最近は、しつけ、進学など、親として本来は放任であってはならないことについて「熱心」でありすぎ、それが偏った価値観や異常な執念に基づいたがゆえの暴走につながっているケースが目立ちます。
その「暴走」も、最初からリンチまがいの常軌を逸したものではなく、最初はごくありふれた威圧や体罰に始まり、それが成り行きでエスカレートしていく……というふうに。
そこには、しつけの体罰ならいい、とか、子どもを思う熱心さは許されるべきだ、といったありがちな考えが契機になっていると私は考えます。
先の、殴った手が痛むのは「良い虐待」という意見は、大変危険だと思いますね。
殴った手が痛いから後悔して、それが最後になるのならともかく、そういう人は、むしろ「良い虐待」と思っているから、少しずつエスカレートするのではないでしょうか。
ですから、「普通の親」はぜったいに「鬼畜」にはならないと断定するのは、見通し甘いだろうと思うのです。
私が幼稚園の頃の経験ですが、「トイレに行きたい」と言えない気の弱い子どもだったので、ちょっとだけ漏らして、それが乾いたらまた少し漏らして、また乾いたら……と繰り返したら、トイレに行かずに済むのではないか、などと考えました。
しかし、乾くのにはそもそも時間がかかるだけでなく、もらす量がだんだん多くなってくるのですね(笑)
1度やって思惑通りになると、次はそれより少し踏み込んで、というのは子どもでも大人でも同じことです。
まとめ
虐待というのは、程度や内容に関係なく、立場的に弱いものに対して自分の価値観で虐げる野蛮な行為です。
人として許されてはならないことです。
ですから、それを批判することは大切なことです。
しかし、そこに転落する危険性については、「自分はそんなことにはならない」などとタカをくくっていたら、あなたは明日の事件被告人になってしまうかもしれません。
以上、千葉県野田市女児虐待死事件、Web掲示板は「量刑が重いとはけしからん」と興奮。だが事件はそもそも別世界の「鬼畜」の仕業か、でした。
ルポ教育虐待 毒親と追いつめられる子どもたち – おおたとしまさ
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