火災(2011年)で心肺停止から生還した妻が最後の脳検査(MRI)クリア。奇跡的に一命をとりとめましたが無事生還できました。2年間も検査を続けるのは稀有なことだそうですが、それだけ妻の当時の状態が重篤で、かつ社会復帰した例は少ないそうです。
心肺停止から生還も精神的なケアも大切
火災時の報道は「意識不明の重体」でしたか、妻の場合は心臓が止まっていました。
一酸化炭素中毒で心肺停止に陥った患者が、脳に何の異常もなくその後も生活しているというのは稀有な例であるそうですが、それは救急隊と医療機関の適切な処置のおかげで、大変感謝しています。
ただ、命が九死に一生を得ればそれで完結かというとそうではありません。
本当は事故のショックなど精神的なケアも残されているはずです。
担当医もそれを心配しています。
事故に巻き込まれなくても、目の前で家が燃え、妻子が遺体用のカバーにくるまれて運ばれ行くところを見てしまった私の精神状態だってまともではいられないはずです。
が、私たち夫婦は、相変わらず事故前と同じ人格を維持して生きています。
私に恨みを抱いている一部の人が、私の頭がおかしくなったと言いふらしているという話も聞きましたが、本当にそうかどうかは、このブログの過去記事をご覧になればおわかりになるはずです。
おかしくなったらブログどころではないでしょう。
そこで今日は、私たちが勝手に思い込んでいる私たち夫婦の「生還の極意」について書いてみたいと思います。参考になるかどうかはともかくとして、ひとつの例として読み流してください。
まず当時から振り返りますと、火災のことは、全国紙、ネットニュース、テレビなどでかなり大きく報じられ、私の本名で検索すると、今も関連する検索キーワードとして、「火災」「火事」と表示されます。
複合キーワードで、それらの語句で私のことを調べている人が突出して多い、ということです。
私の不幸を知りたくてたまらない熱心なネットワーカーが、いまだに全国的に後を絶たないことがわかります(苦笑)
そんなに全国民の恨みを買うようなことしたのかね、私は……
火災で怖いのは一酸化炭素中毒
火災というと、焼け死ぬことをイメージする方も少なくないようですが、よほど深いこん睡など逃げ遅れる事情がない限り、火災では焼け死ぬことが直接の死因になることはありません。
通常は、まず煙で足を止められ、物質が燃焼する際に発生する一酸化炭素を吸い込みます。
一酸化炭素は、酸素を阻害するはたらきがあるので、酸素のいかなくなった脳神経細胞は窒息して死にます。いったん死んだ脳神経細胞は元に戻りません。再生しません。
その時点で、心肺停止になったり、心臓は動いているのかもしれないけれど脳は死んだに等しい状態になったりするのです。
ですから、火災で怖いのは一酸化炭素中毒なんですね。
つまり、火災の犠牲者というのは、焼けたから死ぬのではなく、死んだから逃げることもなく焼けてしまうことの方が多いのです。
焼けるときはもう(事実上)死んでいるのです。
ということで、それから今日で2年たったわけです。
2年たっても脳の検査をする理由
大事故とは言え、2年たっても脳の検査をするの?
と不思議に思われる方もおられるかもしれません。
担当医にとっても初めてのことだそうです。
妻は意識不明・心肺停止の第三次救命救急患者でしたから、むしろ何の異常もないことが不思議なくらいなので、2年診ましょう、ということになりました。
事故後の問診も、知能検査も全く問題ありませんでした。退院後の生活も、記憶障害に陥ったことは全くありません。
では、妻の「頭」は全く何の問題もなかったのか。
……実は、そうではありませんでした。
といっても、これはおそらく事故とは無関係の、彼女の本来持っている性質だと思うのですが、
妻自身が火災の第一発見者で110番していながら、そのときの記憶が全くないのです
したがって、警察も妻から話を聞くことができず、今も火災の全容ははっきりしていません。
というと、疑い深い人はこんなふうに考えるのではないでしょうか。
何か都合の悪い事実を隠している?
たぶん、どちらでもないと思います。
なぜなら、入院先で意識を回復してから数日、私たちは筆談でしたが、気管切開に入れているカニューレが会話用(スピーチバルブ)になったとき、開口一番、妻は私に「そろそろ事故の原因を教えてくれない?」といいました。
妻は、火災であったことすらも認識していなかったのです。
だけれども間近に迫っていた子供の行事は覚えていて、私にこうしろ、ああしろと指示をするのです。
つまり、事故のところだけを切り取ったように記憶が抜け落ちていたのです。
もちろん、それはいわば「状況証拠」というやつで、悪意たっぷりの心の真黒な人から見たら、これでも妻は「怪しい」と思われるかもしれません。
妻が一世一代の芝居をしていると思うかもしれません。
ただ、普段から彼女は、自分のつらかったことは、本当に忘れてしまうという漫画のような性格だったので、私からすると、今回もそれで十分説明がつきました。
妻は良くも悪くも「物忘れ能力」に優れているのです。
出来事だけでなく、トラブルのあった人物の顔もきれいさっぱり忘れてしまうのです。
私は、それが原因で何度か恥をかいたり痛い目にあったりしているので、必ずしも都合のいいことではないのですが、抱えていたくない嫌なことは忘れるというのは、少なくとも彼女自身の精神衛生上よいことではないかと思います。
もし、妻が事故当時のことを覚えていたら、具体的に「あのとき、ああすればよかった」と先に立たない後悔のシュミレーションをはじめ、今頃精神的にやられていたかもしれません。
物忘れ能力が幸いしたのです。
今回ばかりは、すっかり忘れてもらって、よかったと思っています。
では私はどうか。
私は逆に、かなり執念深い、嫌な奴です(笑)
今も事故のことは、リアルに描写できるでしょう。はっきり覚えていますから。
そんな私が、なぜ今「平気」でいられるのか。
それは、私が批判精神旺盛で、他者の落ち度に目を向けることができる人間だからです。
といっても、別に責任転嫁するということではないんですよ。
要するに何事も「自分のせいです」などと「格好よく」抱え込まず、自分の落ち度のあるなしにかかわらず、他者の落ち度を冷徹に見るということです。
火災のようなアクシデントは、偶然と必然の産物です。
偶然というものを、人は「運」とか「ほしのもと」とかいいますよね。
ですから私は、今回の火災は「天が悪い」「ほしのもとが悪い」と思うことにしました。
そう思うと、不思議と冷静になれました。
私は罰当たりですかね。
そう思う人に聞きたいのですが、あなたは自分の親も含めた先祖が無謬だと思いますか。
子孫に対して完璧な「ほしのもと」を提供してくれていると思いますか。
悪いのは「ほしのもと」
事故後、先祖の墓の関係で檀家になっている仏教系某宗派の読み物を読んでいました。
すると、こう書いてありました。
「なんでもひとのせいにするな」「悪口を言うな」
……
もし、その通りに今回、自分を責めていたら、私は事の重さを受け止めきれなくなり、それこそ頭がおかしくなっていたかもしれません。
もともと、私に特別な信仰はありませんでしたが、
個人の事情や価値観に寄り添えない宗教を、そのときほど無力なものと思ったことはありませんでした。
信仰のある人、ごめんなさい。
宗教を否定しているわけではありません。何でもないときなら、拝むだけで心の安寧は得られるでしょう。
でもね、人間、本当に窮地に追い込まれたら、宗教も含めて実は何も頼りにはならず、結局は自分自身しかない、ということを思い知らされるという話です。
物忘れ能力と他者追求能力。きれいごととは180度異なる私たちの“愚かな”生きざまですが、そのおかげで私たちは自殺もせず、精神的な病気とも無縁です。
私たちを、したたかと見るか、鼻つまみ者と見るか、それはみなさんの自由ですが、人間、命あっての物種ですからね。
「きれいごと」にとらわれて自分を壊すよりは、自分の気持ちを何よりも大事にして、がまんせずさらけ出せるものはさらけ出して生きていった方がいいと思いますよ。
合理的に解決できない災難にあったら、「ほしのもとが悪いから仕方ない」と割り切りましょう。
くれぐれも「自分が悪いんだ」などと抱え込まないことです。
以上、火災(2011年)で心肺停止から生還した妻が最後の脳検査(MRI)クリア。奇跡的に一命をとりとめましたが無事生還できました、でした。
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