正月といえば初詣。「今年も」か「今年こそ」かわかりませんが、「いいことがありますように」と願おうと神社仏閣に向かいます。しかし、参詣する人がその神社の御祭神や寺院の宗派に対して信仰があるとは限らないでしょう。ならどうして拝むのでしょうか。
初詣は信仰のある無しに関わらず参詣者が多い
今年はコロナ禍で分散参拝が推奨されているそうですが、それでもやはりお正月は、神社仏閣に多くの参詣者が訪れたようです。
【東京】明治神宮が、初詣で毎年300万人が訪れる「超人気の神社」になった理由 [首都圏の虎★]
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その中でも、多数派は神社というのは、すでにご紹介したとおりです。
では、どうして人はそんなに神社に行くのでしょう。
『知っておきたい日本の神様』という書籍では、全国にあるたくさんの神社について、その種類や祀られている神様、時の支配者・権力者とどのように関わってきたのかなど「そもそも」論とともに、そうした参拝の意味も解説されています。
「神様」は人の心の中にある
私は、特定の信仰はありません。
私に限らず、日本人のすべてが、必ずしも神道や仏教徒というわけではないでしょう。
そういう人が、初詣だの、お宮参りだのすることに意味があるのか。
素朴な疑問でした。
『知っておきたい日本の神様』は、タイトル通り、神社についての成り立ちや系譜、ご利益などが218ページの文庫本にまとめられています。
同書にはこう書かれています。
「人間は神社に参拝して、願いごとを唱えることによって、その願望を実現するための努力をはじめるのである」
つまり、参拝というのは、神様に何かをしてくれと頼むようでいて、実は自分の心にがんばりを誓っているということです。
さらに、こうも記載されています。
「神様とは、私たちがもっている能力を最大限に引き出してくれる存在である」
神様は、私たち各々の心の中に存在する観念であり、自身を信じる最大の拠り所ということです。
つまりどういうことかというと、神社に神様がいて、そこにお願いをするのではない。
神社にお参りするのは、その人の意図や自覚に関わらず、実は自分自身の内なるものに自分の願いを確認する行為だ、と述べているわけです。
ですから、たとえ神道や仏教徒でなくても、信仰があろうがなかろうが、誰であれ拝むことには何ら問題はないわけです。
特定の信仰がなくても、各自の心の中には、自分を支えてくれる「神様」が宿っているということです。
私は信仰がないと書きましたが、宗教を否定するわけではないし、神社仏閣はよくお伺いします。
その道に精通していないので、拝み方、たとえば、神社では二礼二拍手一拝でお参りをしますが、そのような礼儀も詳しいわけではありません。
しかし、拝むときは、信仰があろうがなかろうが、そのルールに沿おうと思っています。
野球をするなら、野球用のユニフォームを着て、バットとグローブを持つようなものです。
神社の種類
ところで、神社については、御祭神がいろいろあります。
お寺にも〇〇宗はありますが、神社の種類はご存知ですか。
同書には、そうした解説もされています。
稲荷神社(商売繁盛)
稲荷神社(商売繁盛)は赤い鳥居でお馴染みですが、全国に2万社あるといわれています。
日本で一番多いそうですね。
稲荷神社は、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)という、稲に宿る精霊を祀っています。
稲ですから、もともとは農耕神だったのですが、室町時代になって商業がさかんになると、商売繁盛の神としての性格を持つようになったそうです。
「稲荷大神様」のお使い(眷族)はきつねとされていて、境内には狛犬ではなく“お狐様”が構えていますね。
しかし、それは野山の狐のことではなく、我々の目には見えない白(透明)狐=“びゃっこさん”とされています。
結論として、きつねではありません。
八幡神社(家運隆盛)
八幡神社(家運隆盛)は、私も子供の頃、七五三で参詣しました。
それはともかくとして、八幡信仰は、九州の宇佐八幡から全国各地に広まったと書かれています。
八幡神(やはたのかみ、はちまんしん)は、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から、国家鎮護や家運隆盛の神様(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めました。
誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされています。
神仏習合から八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と称され、神社内に神宮寺が作られました。
八幡というのは、大漁旗が掲げられた船の景色をあらわす言葉です。
天神社(合格祈願)
天神社(合格祈願)は『通りゃんせ』に出てきますね。
天神(雷神)様のお通りだ、と。
各地の天神社、天満宮は、平安時代の学者・政治家である菅原道真を祀っています。
その才に嫉妬した藤原氏により、菅原道真は九州の大宰府に左遷されて亡くなりますが、怨霊が都で天変地異を起こしたことから、それを鎮めるために京都の北野天満宮が作られたといいます。
その後、地方の嵐や紙屋雷の神を祀っていた神社が、次々と天神社となり、全国的に天神信仰に。さらに江戸時代には、高名な朱子学者が何人も天神信仰をもつようになり、天神が学業成就の神様となったそうです。
まとめ
既存の宗派・宗教については、信仰は様々だし、そもそも特定の信仰がない人もいます。
しかし、「どうか〇〇がうまくいきますように」「なんとかして〇〇ができるようになりたい」と、特定の神様に願わないだけで、人間は内心で自分自身に願うことはあるでしょう。
宗教というのは、そうしたことも含めて、昔から人々の心の拠り所として長年の風雪に耐えた文化ではないでしょうか。
物理的な真偽だけで否定することも、一面的なことだと思っています。
たとえば、神というものが、物理的に存在するかといえば、科学的に「ある」という論文は存在しません。
しかし、人々が信じ続け、それを励みに日々暮らしたり心の安寧を得たりするのは、たとえ科学的には存在を証明できなくても、心のあり方としてそこに大いに意味はあると思うのです。
改めて書きますが、特定の信仰があってもなくても、人間は各自の心の中に、自分を支えてくれる「神様」が宿っていると、『知っておきたい日本の神様』では記載されています。
宗教に縁のない私も、まったく何の抵抗もなく合理的に理解できる「神様の話」です。
みなさんは、いかがですか。
イメージ画像は東京大田区の穴守稲荷神社です。
以上、初詣などに参詣する人が、その神社の御祭神や寺院の宗派に対して信仰があるとは限らないでのに、どうして拝めるのでしょう、でした。
知っておきたい日本の神様 (角川文庫ソフィア) – 武光 誠
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