エトモ鵜の木が2014年12月に開店しました。美容院のようなモダンな名前のあげパン屋さんです。場所は東急多摩川線鵜の木駅の隣。鵜の木にあげパンというのは理由があります。あげぱんの発祥は大田区といわれていますが、中でも鵜の木小学校が一番最初にあげぱん給食を導入したと言われているのです。
揚げパンについては、すでに大田区南蒲田にあるブーランジェリーミモレットのあげぱんでご紹介しました。
⇒ブーランジェリーミモレット(南蒲田)で大田区発祥のあげぱんを
あげぱんは、コッペパンを油で揚げて、砂糖をまぶしたものです。
なぜそのようなことをするかといえば、当時のパンはあまりおいしくなかったのです。
そこで、油であげて、砂糖をまぶして、生徒・児童が食べやすいように工夫したのだと思われます。
学校給食法が施行されたのが1954年。以来コッペパンが続き、揚げパンが登場したのは1964年(昭和39年)だそうです。(http://www.juk2.sakura.ne.jp/rekisi.html)
ですから、当時のあげぱんを厳密に再現するには、そのおいしくないコッペパンと、当時の質の砂糖や油を使わなければなりませんが、今や、原材料の質も作り方も変わっていますから、当時と同じ味は再現できません。
つまり、もっとおしゃれで美味しくなっています。
ブーランジェリーミモレットは、その中で、コッペパンの形状など、なるべく当時に近づけていますが、その一方で、21世紀のおしゃれなあげぱんにシフトしているのが、今回ご紹介するエトモ鵜の木です。
エトモ鵜の木は、東急多摩川線鵜の木駅に隣接しています。
まあ、普通は駅を下車すれば誰でもたどり着けます。
これが、エトモ鵜の木のあげぱんです。
ブーランジェリーミモレットのあげぱんよりも細く、キメも粗い感じがします。
昭和40年代前半の学校給食を思い出すと、形なら蒲田あげぱん、舌触りなら東京あげパン、という感じです。
あげぱんの種類は、シュガー、シナモン、きなこ、カレーなどがあります。
新しいタイプのあげぱんを追求していることがうかがえます。
エトモ
所在地: 〒146-0091 東京都大田区鵜の木2-4-1 鵜の木駅
鵜の木界隈
さて、鵜の木界隈ですが、東急多摩川線鵜の木駅の北側は、並行して東京都道311号環状八号線(環八)が走り、道路の向こう側は東嶺町、久が原と続く高級住宅街です。
また、北上すると田園調布本町、そして田園調布と、大田区というより全国でも指折りの高級住宅街です。
その一方で、駅の南側に続く鵜の木駅前商店会は庶民的です。
大きなスーパーはなく小売店が頑張っています。
商店街の終点には東京高校があります。
2016年のリオデジャネイロオリンピックにおいて、4×100mリレーで銀メダルを獲得したケンブリッジ飛鳥選手の母校ということで、オリンピックが終わってしばらくは、商店街がそれを祝っていました。
鵜の木駅から北東に200mほど歩いた鵜の木1丁目には、鵜の木松山公園があります。
サクラ、クロマツ中心の疎林と、埋蔵文化財である横穴墓(古墳時代末期から奈良時代にかけての有力者の墓)のある公園です。
公式サイトより
川原坂という坂の上にあります。
大田区のとくに北部は台地が多く、温泉や古墳が見つかっています。
鵜の木松山公園からさらに奥に進むと六郷用水の女堀があります。
大田区は、現在の丸子川(世田谷区岡本~大田区田園調布)から多摩川の六郷水門まで流れていました。
六郷水門については、以前ご紹介しています。
現在の東京都狛江市元和泉の多摩川から、世田谷区を通り大田区に至る用水路で、主に農業用水として水を供給したそうです。
六郷用水の女堀は、六郷用水開削時の最大の難所と言われた場所で、今はベンチが置いてあり散策時の休憩スポットとなっています。
さらに進むと六郷用水の復元水路が現れます。
水路の脇にはずっと桜の木があり、花を見ながらゆっくり散策できます。
家庭で飼われていた金魚や鯉などが、大きくなりすぎて飼いきれなくなると、ここに放流する人もいるようです。
びっくりするほど大きく育った鯉や亀が水路にいます。
それだけではなく、「ヘビに注意」の立て看板もありました。
さらに北上すると、東急多摩川線沼部駅付近になり、新幹線のガードがあります。
そこをくぐると、大田区随一の桜の名所、桜坂になります。
中原街道の旧道の面影を残している区内唯一の場所だそうです。
中原街道の下を通るトンネルまでが復元水路です。
もっとも、水の流れに沿って歩くなら、ここがスタート地点となります。
トンネルをすぎると、東急多摩川線多摩川駅の浅間神社つなりますが、それはまた別の機会にご紹介しましょう。
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