善慶寺(大田区山王)に行ってきました。新井宿義民六人衆墓は大田区のスポットとして区外からも多数の人が供養参拝に来ています。日蓮入滅後の正応5年(1292年)に建立され、延宝7年(1679年)に縁者父母の墓という名目で墓を造立したと伝えられています。
善慶寺と新井宿義民六人衆墓の全容
山王の住宅街にある善慶寺
善慶寺の最寄り駅は、JR京浜東北線(東海道線)大森駅西口です。
出口に面してバス通り(都道421号線、池上通り)があるので、池上方面に向かって歩きます。
すると目印があるので右折して進みます。
日蓮宗法光山善慶寺は、山王の住宅街にあります。
駅から徒歩10分ぐらいではないでしょうか。
善慶寺とはなんだ
善慶寺は、公式サイトによると、もとは法光山と称したそうです。
日蓮宗祖が池上において入滅後10年、新井宿村の住人であった増田三郎右衛門が、中老僧日法上人に帰依して正応五年(1292年)に建立されたと伝えられています。
大田区には様々な宗派の寺院がありますが、やはり日蓮宗の総本山である池上本門寺が規模はもっとも大きいといっていいでしょう。
そのため、周辺にも関連の寺院が多く建てられています。
善慶寺の公式サイトによると、こんにちまでの経緯は以下のように記載されています。
従って日法上人をもって開基とし、身延を総本山とする一致派の寺でありましたが、十二代の日好上人日什門流の教風に帰依されて京都妙満寺派に属し、以降日什門流の寺院となっています。 昭和十六年、日蓮門下三派合同により顕本法華宗より今日の日蓮宗に包括され、現住職(罍慈鴻)は第44代として開基以来、七百年を超えて連綿として法灯が継承されています。
善慶寺には、地元の人以外にも参拝者がいますが、広く知られるようになったのは、新井宿義民六人衆の史蹟があるからと思われます。
新井宿義民六人衆とはなんだ
江戸時代の延宝年間(1673年~1681年)の話です。
荏原郡新井宿村(あらいじゅくむら、今の大田区山王)の農民は、領主である旗本の木原家の厳しい年貢の取立てに苦しめられていました。
4代目の木原義永は旱魃や水害が続いたにもかかわらず、重税を課して農民を苦しめていたのです。
そこで、百姓らが延宝2年(1674年)、19か条にわたる訴状を提出して年貢減免を願い出ました。
訴状は、借金をしたり、田畑を取り上げられたりする窮状に基づいた内容であり、後に『新井宿村名主惣百姓等訴状写』として東京都の指定有形文化財となりました。
しかし、木原義永は黙殺します。
やむなく、酒井権左衛門、間宮太郎兵衛、間宮新五郎、鈴木大炊之助、平林十郎左衛門、酒井善四郎など6人が村の代表として、江戸幕府将軍・徳川家綱にに直訴しようとしますが、誰かの密告によって直前に捕らえられて斬首されてたといいます。
越訴(領主の頭越しに幕府に訴えること)は、領主の引責問題に繋がりますので、木原義永は6人を斬首したという理屈でしょう。
村人たちは、6人を供養するために、墓をたてようとしましたが、お上がそれを許しません。
斬首されたということは、罪人の扱いだったために、表立った弔いが出来なかったためです。
その後、善慶寺の日応上人が遺骸を引きとり、延宝7年(1679)に間宮藤八郎という村人が、自分の父母の墓という名目で、6人の墓石を善慶寺の参道入口付近に造立。
その下に6人の遺骨を密かに埋葬したそうです。
新井宿義民六人衆墓地と石碑は、1941年(昭和6年)に東京府史蹟となったそうです。
新井宿義民六人衆墓の史蹟は、「第十九世遠妙院日宣上人と第二十世証源院日応上人のお力により生まれた」(善慶寺公式サイト)といいます。
1972年(昭和47年)には、道路拡張のため埋葬位置をずらす必要がありましたが、遷葬式をとりおこなって善慶寺境内に移されました。
本来の墓は、藤八郎の父母の法名が正面にあり、そして他人の目を避けるように、墓石の裏面には六人の戒名が刻まれていました。
墓は、表の墓石水溜に水を流すと、穴から裏側に通じて6人の戒名が刻まれている墓の裏側に水が流れるように作られています。
新井宿義民六人衆墓の感想
この経緯は、『十九ヶ条の訴状』は存在したものの、それ以降の話は証拠がないので伝承扱いとなっています。
もとより、当時には当時の事情や価値観もありましたので、現在の価値観で断ずることは出来ませんが、もし「殺された」のが事実なら、6人の行動については村人の誰かがお上に密告したスパイがいたり、村民同士の対立があったりと、ミステリアスな経緯を疑えることは確かです。
いずれにしても、大衆同士が監視しあい足を引っ張り合うことは結局お上を利するだけ、ということを教えてくれているようにも解せます。
真相はどうあれ、現代にも通じるその教訓は私たちの胸に刻むべきかもしれません。
善慶寺界隈のスポット
善慶寺の参道に通じるバス通りは、以前ご紹介した美味しい店もあります。
東京煮干中華そば三三七大森(大田区山王)という人気のつけ麺店は、JR大森駅前バス通りの『森05』停留所前にあります。
濃厚なダブルスープにもかかわらず、洗練されたマイルドな味で、つけ麺や味噌ラーメンを提供しています。
JR京浜東北線を超えたところには、入新井西児童交通公園(大田区大森北)があります。
貴婦人でお馴染みのC57-66が、毎日正午と午後3時に汽笛を鳴らし車輪を動かす半動態保存をされています。
こうしたもると、善慶寺の新井宿義民六人衆墓供養参拝、入新井西児童交通公園の貴婦人(C57-66)見学、そして三三七でダブルスープに舌鼓をうち、午後からは馬込文士村を巡回、という散策コースもいいかもしれません。
以上、善慶寺(大田区山王)は日蓮入滅後正応5年(1292年)に建立され新井宿義民六人衆墓は延宝7年(1679年)に造立し史蹟に、でした。
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